年間第31主日説教 ルカによる福音(19:1−10)
2004年10月31日
於:中島町教会
今日の福音書の中で,「あの人は罪深い男の所に行って宿をとった。」と言われております。「罪深い男」,この意味について今日一緒に考えてみましょう。そのためにルカ福音書5章のペトロとイエスの出会いの場所を思い出してみてください。
弟子達は夜,漁に出ていきました。ところが,魚が捕れないでそのまま朝帰ってきます。イエスと出会って,イエスは彼らに「もう一度沖に乗り出して網をおろしなさい」と命じます。弟子達は今頃行っても,魚は捕れないと分かっていますが,あの方がそうおっしゃるのだからということで,沖に漕ぎ出して網をおろします。その時は大漁で帰ってくることが出来ました。ペトロはイエスの足元にひれ伏して,そのとき「わたしは罪人です」と言います。イエスと出会う前までは「わたしは罪人です」と言えなかった。わたしは適当に善人だと思っていました。わたしは信仰があり,わたしはボランティアもし,わたしは何でもしている。時々,文句を言ったり,夫婦喧嘩をしたりしているけれども基本的には善人であると考えておりました。ところがイエス様と出会ったら「わたしは罪深い」と感じます。
今日のあの人々,ザアカイが出会った人々はイエスと出会ったときに「あの人は罪深い」と感じました。これが違いです。
イエス様と出会って「わたしは罪深い」と思うか,「あの男が罪深い」と感じるか。わたしたちはイエス様の福音に出会いながら,いつもわたしではなくて, あの人に罪がある,あの人に問題があると,こういうふうに考えております。
わたしたちはペトロと同じようにイエス様に出会ったらその足元にひれ伏して「わたしは罪深い」と言えるようにならなければなりません。他人が罪深いと考えている限りにおいて,イエス様と決して出会うことはないでしょう。
じゃあ!少し,罪ということについても考えてみましょう。罪とは何でしょう。
罪が解かるためにわたしたちは,その罪の結果,人に及ばす害というのを少し考えてみれば如何でしょう。たとえば思春期の男の子がお母さんにいつも「くそババー」とか「ババー」とか「バカ」とかこういう言葉を何度も繰り返すとしましょうか。「思春期の子供だから普通なんで仕方がないんだ」と言って弁護しがちです。でもお母さんの身になってみたら「くそババー」と言われる度ごとに傷つけられ,追いやられ,たぶん家庭も崩壊し,そして全部をなくすかもしれません。この男の子に罪がないといえるでしょうか。思春期のこの男の子は自分の生涯でもってその罪を償っていかなければいけない,という事も考え併せる必要があります。
例えば,援助交際の女の子について考えてみましょうか。「わたしの身体を売って何の文句があるのか」とうそぶきます。わたしの身体なんだとうそぶきます。
彼女に群がってくる中年の男達のことを考えてみてください。たった一回の楽しみだし,あいつもそういうことでお金をもらっているのだからいいじゃないかと考えます。でも性ということを商品化し,男性に身を任せても大体こんなもんだ,というふうな考えを若い彼女に植え付けてしまうのです。
こんな考えを持つ女性を作っていったとしたらそんな考えを通して,結婚に恵まれない。あるいは,結婚しても,人生とか家庭とかという意味が何か分からないまま過ごす。そして,それが崩壊するにいたれば,たった一回の楽しみだったでは済まされない,何かがあると考えてもいいのじゃないでしょうか。
同じように妻が夫を「おまえはバカだ」「粗大ゴミだ」云々と口で汚くののしる,子供に向かっては「お父さんのように無能な人間になってはいけないよ」なんて言っている。告解の時に「わたしは,一回わたしはそんなことを言いました」と言う。本当にそれが罪の全てでしょうか。
それを通して,男が意欲を無くし,家庭に帰ることに気が重くなり,あげくは別の女性と不倫をしたり,あるいはお酒に溺れたり、ひどい時にはホームレスになって家を出て行く。
この時に,あなたは能無しで粗大ゴミだなどと言った言葉の意味がとっても大きな意味を持っていることに気付くのです。
罪というのはいつも相手の立場の立って自分の言動を考えてみる必要があるわけです。
例えば,わたしの例を考えてみましょう。わたしが高松教区の司教として困難に出会いいろいろな反対を受けるとしましょうか。その時に,「まあしょうがないか」と全てを投げ出し,「まあ,なるがままになるさ」とこれぐらいのやり方で,教区そのものを駄目にしてしまうとしましょうか。
活気のない,もう見るからに立ち上がることの出来ない教区にしていってしまう。その時,わたしは罪がないでしょうか。その時,神の恵みを信頼して,信じて,そして,どんな困難があっても立ち上がって働かないといけないというところに至らなかった,その点においてわたしは罪深いと考えなければいけない。
わたしがその決心を出来なかったことのために,高松教区はみごとに凋落していく。活気のないつまらない,難しい教区になっていったとしたら,わたしは自らの罪をやはり悔いないといけない。
罪を考えるときは,いつでもこういうふうに相手の立場に立って考え,自らを振り返る。こういう視点が必要です。
イエス様と出会って「あいつは罪深い」と感じている限りにおいて,決してイエス様と出会わない。聖パウロの言葉を使いますと「わたしが至らない」,「わたしはうめく」と,こういう心になった時に初めてイエス様のもとで「わたしは罪深い,わたしを憐れんでください」と言えるようになるのです。
*この文章は溝部司教様の校閲,発表のご認可を得ています。
カトリック愛媛地区信徒使徒職協議会からご送付いただいたものを掲載しました。 |