年間第27主日説教 ルカによる福音(17:5−10)
2004年10月3日
於:坂出教会
今日の福音書で、からし種ほどの信仰があれば、なんでも出来る、と言うことをイエス様がおっしゃっておられます。
それでは、からし種ほどの信仰とはどういうことでしょう。長くお聖堂でお祈りしたからその信仰があるということでしょうか。長くお祈りすれば人々がみんな教会に来ると考えることでしょうか、あるいは適当に人を招いて一緒に食事をして友達になったから信仰が伝わった、くらいのことでしょうか。何か言葉を分かち合って聖書の勉強をしたから宣教が出来たって云うことでしょうか。
このからし種の信仰っていうことのうしろに、今日の福音は“果たしなさい”、“やるべきことをやりなさい”ということばが述べられております。
私は養護施設で、司祭として、園長として院長として働きました。その養護施設で働いていたのはサレジオ会の修道士たちがほとんどでした。彼らは農場で牛を飼ったり、おねしょの子供の世話をしたり、非常に地味な目立たない仕事を沢山しておりました。たとえば、夜寝るときにある修道士は、自分のベッドの隣に二人の子供を寝かせて、腕に紐をつけて、夜、ある時間になり目覚ましがなったら腕につけている紐を引っ張って起し、二人をトイレに連れて行く、毎晩毎晩そういうことをしている彼を、私は見てまいりました。朝起きると彼らのベッドからシーツを外しまして、洗濯機にシーツをたたきこんで、それからミサに行って、帰ってきたら、シーツを伸ばしてパンパンパンと音をたてて、物干し竿にシーツをかけていく、こんな修道士と毎日一緒に生活いたしました。120頭牛を飼っていましたので、毎朝3時に二人の修道士は起きて、乳牛の乳をしぼるという作業をしておりました、駆け込むようにして朝のミサに来る二人の修道士たちがいました。
私は院長でしたので子供たちに、今週は何勝何敗だったかと、からかったものです。何回おねしょをしなかったかということです「3勝4敗がんばらんといかんねえ」と「5勝2敗だった、よかったねえ褒美になにかあげようかねえ」と、こんな生活をしておりました。こんな私達にある人々はこんなことを言ってその養護施設を去って行きました。こんな養護施設にいておねしょの子供の世話をしてもキリストの言葉は伝わらない、私たちは宣教師であって神のことばを伝える人間なんだと、間接の宣教師ではなくて直接の宣教師になりたいともうしました。教会の中で聖書の勉強会を開きたいし、教会の中でみんなの前で説教したりみことばを分かち合うという仕事がしたい、と言って去って行きました。私は黙々と仕事をしているこの修道士たちを見ていましたし、この修道士たちの無言の叫びも聞こえるような気がしておりました。ひどくこの神父達に私は腹を立てたのを憶えております。綺麗ごとの信仰というのは少しくらいの困難に会うとまったく他人のせいにしてしまう、利己主義で弱いということをよく見たような気がしております。本当の信仰は黙々と乳牛の乳を絞ったり、おねしょの子供を一晩中ささえたりするそんな生き方ではないだろうかと、つくづく思いました。そのころ私はマザーテレサの本をたくさん読みました。日本に来たマザーテレサの姿も追っていきました。確かにマザーはしっかりと祈っています。ミサを通して捧げる、生きる、ということを感じ取った一人の聖女でした。形だけミサに与ってるんじゃない、綺麗ごとをいってるんじゃない、ミサはキリストのいけにえであると信じている人なのです。そしてミサから出た私は、キリストを伝える、キリストのいけにえの仕事にあずかるとの信念のもとに、カルカッタの町に出て死にゆく人々を看取っていくマザーテレサの、あの聖者の姿がありました。ひどく私は、感動したのを覚えております。頭をかしげて信心深く祈っている人には無い強さだと私は思いました。同じように聖書の勉強会をすれば宣教してるなんて考えている、そんな形だけの生き方ではない、自ら実行しながら生きている。こういう信仰、これが、からし種ほどの信仰なのです。
山を移すほどの信仰というのはその実一日仕事をして帰ってきて、当然私のすべきことをしましたと言ったあの僕の信仰であるということ、だからこの二つの話しは別々な話しではなくいっしょにくっついていた話だと言うことを理解しないといけません。
私は一緒に働いたあの修道士たち、人の目につかないで黙々といきているあの人達のことをいまでもしげしげと思い出します。時々自分が恥ずかしくなります。何か小手先で人の心をつかむような薄っぺらな信仰ではありません。自分の人生をかけて働いている人の信仰、これが問われているということです。
この教会には病院に働く人もおられるでしょう、学校に働く人や会社で働く人が大勢いるでしょう、家庭の仕事や子育てをしている人達もおられることでしょう、きっと、それぞれの悩みを抱えておられると思います。でも、その仕事の現場でキリスト様と出会わなけれぱどこで会うでしょうか。特別に何かの信心業をしたら、信仰がより深められると、こんなことではありません。自分に与えられたその仕事の場、毎日の自分の生きる場所、そこにキリストを見つけないといけません。そんなことを今日の福音が私たちに考えさせてくれております。
最後に、好きなマザーテレサの言葉を読んで終りにしたいと思います。日本でなさった話です。
『物質的に豊かであるが、日本には神に飢えた人がたくさんいます。生活に祈りをもつようにして下さい(生活に、ですね)。祈れば心が澄み、心が澄めば神が見えてきます、神が見えれば神の愛が働いて言葉でなく行動で愛を現したくなります。祈りは愛を深くし、愛は奉仕を生みます。生活に祈りをもてば貧しい人々を知るようになります。貧しい人を知ればかれらを愛するようになり助け、愛と、平和と、喜びを与えます。』
*この文書は溝部司教様の校正と配布許可を受けています。
信徒有志
カトリック愛媛地区信徒使徒職協議会から配布して下さったものを掲載させていただきました。 印刷物をOCR処理して作成しましたので,文字化け等があればお知らせいただけると幸いです。 |