2006年3月4日
高松教区民の皆様へ
カトリック高松司教区
司教 溝部 脩
仙台教区司教叙階式にあたって
3月4日、仙台において仙台司教の叙階式が行われます。 仙台教区の司祭、信徒の皆様に心からお祝いを申し上げるとともに、これを機会に高松教区もそれが何を意味しているかを考えるよい契機にしたいと思いました。 ホームページを借りて、今私が考えていることをお伝えします。
【T】
現役であった仙台教区長が高松に移されたのは、特別な意味がなかったでしょうか。 それは単なる司教の交代ではありませんでした。 やはり高松教区には混乱と問題があったからだと言えます。 その混乱は溝部が就任して2年経った今、すべて消失したと言えるでしょうか。 司教が交代したから、はや何の問題もないとお考えでしょうか。
答えはたくさんありますが、一つだけいえること、それは一致への歩みは司教一人ではとてもできないということです。 そのためには、教区民である皆様が、まず、何が問題であったかをしっかりと理解することから始めていただくより他に方法はありません。 そして、それが分かれば、お互い率直に認め合って、和解の道を歩み始めることができます。
問題の発端は種々考えられますが、主に二つのことが考えられます。 その一つは四国での宣教が思わしくなく、閉塞状態を抜け出す術が、なかなか見つけられないなかで、今までの状況を余りにも急激に変えようとした動きがあったことです。 善意そのものだったのですが、歴史的事情を踏まえた運動を慎重に展開することをしなかったつけが、混乱と分裂をもたらす原因となりました。
その反対に二つ目は、現状の打開に取り組む努力が不足して、惰性に流れた教会の姿があり、教区全体としての将来のビジョン、将来に向かっての強い絆による協力などに欠けていた面が多々あったことです。 それに日本の他の教区が種々模索しながら、新しい道を探しているのと呼応できなかったこともその原因の一つにあげられます。 新しい運動、新しい教会の動きを理解することが少なかったことも確かです。
私の分析は独りよがりかも知れません。それでも余り狂った判断ではないと信じています。 今になっては、この二つの流れを一つにしながら、教区の一致をつくりあげるのはとても困難です。 この教区において起こった出来事は、はや長い年月になり、お互いを理解し、和解するのは頭では分かっていても、心底から和解するのはむずかしい状態にあります。 私は決して悲観主義者ではありませんが、これはいつわらない現在の高松教区の現状と判断しています。
【U】
それでは今何をすればよいのでしょう。 基本的なことが一つあります。 ヨハネ・パウロ2世教皇様がなさったように、過去の出来事において誤ったということを素直に認めてほしいと思います。 自分たちが決して間違わなかった、そしてそのやり方を決して変えないという姿勢を持続する限り、一致は生まれてきません。 また、相手を批判することに終始して、真の愛徳にかけたということも認めてほしいと思います。 自分たちの信念なるものが、一致をつくりだすのに障碍となると分かったら、それらの信念なるものも変えていくくらいの勇気と寛容さを持ち合わせないといけません。 今まで通りでもなく、反対に、今から何でも変えるというのでもありません。
それをどのように変えていくかが、仙台から移ってきた司教の最大の課題です。 私にとって困難なのは、私が司教であり、牧者であるということです。 一方を裁いて、そして一方を切り捨てて、ということはできません。 ぎりぎりまで対話を続ける務めがあります。 対話ができなくなった時、対話を無視した行動がある時は、司教としてぎりぎりの決断を強いられます。 そこまで司教を追い込めば、高松教区はもはや再生の道は非常に少ないと言えそうです。
そこで大切なのは、司教を中心とした教区の組織作りに賛同して、協力することです。 それは今までと随分違っているでしょう。 でも四国の将来を考える時、もう待ち時間はありません。 この3−4年でバチカン公会議が提示する「信徒の教会」を実現しなければなりません。 司祭がいなくなれば、外国から援助してもらえばよい、誰かがやってくれるだろうという発想法から変わることが求められます。 祈っていれば何とかなるという考えにも私は余り納得できません。 他人頼りの教会は本物にはなり得ません。 もう、ぎりぎりの状態が高松教区だと言っても過言ではありません。
【V】
それでは司教はどういう方針で進んでいるのでしょうか。 これに答えるのはそんなに簡単ではありません。 しかし、あえて言うとすれば、対話ができる教会であることが基本です。 対話する、協力する、これが基本です。 教区が現在打ち出している方針は全てこれに基づいています。 協力宣教司牧態勢然り、青少年宣教司牧然り、生涯養成チーム然り、宣教司牧評議会然り、司祭評議会然りです。 教区の方針と活動は、すべてこれらの対話によってなされています。 結論が出るまで、こうした組織はしっかりと対話しなければなりません。 小教区単位で、教区単位でも、確かな対話を始めることが必要です。 あきらめてはいけません。 その対話から生まれた方針を教区として、小教区として守っていくのです。 これが一致を生み出します。 決まったその方針に、どのように従っていくのか、これは教区民にとって新たな課題となります。 その時、出された結果をあれこれ言うより、それをどのように活かすかを考えることの方が大切になって参ります。 批判の目で見るより、どのようにすれば一致が生まれるか、真剣に考えてほしいと願っています。
長々と書きました。 余りまとまりがある文章ではありませんし、よく練って書き上げた文章でもありません。 しかし、仙台教区司教誕生に合わせて、高松教区も原点に戻って考える材料を提供したいと思いました。 司教は無力ですが、教区民が一つの方向を見つめて歩んでいけば、何かが生まれてくると信じ、希望しています。
仙台教区平賀徹夫司教叙階式の日 仙台にて