ウィークリー・メッセージ 2022年10月30日

回心の機会はある

小山一助祭

(知恵11・22~12・2;Ⅱテサロニケ1・11~2・2;ルカ19・1-10)

 ザアカイはなぜ、イエスを見たくなったのだろう?彼のようなタイプの人間にとってイエスのような存在には、全く興味がわかないし理解もできず、また、理解したいと思わぬ奇人・変人であり、一種の狂人でないかとも思ってたのだろう;イエスの身内ですら、彼は狂っていると思ったほどだから(マルコ3・21)。

 ザアカイは徴税人の頭として成功していた。親からは、ヘブライ語では「義人」とか「清い人」を暗示するザアカイという名前を貰ったが、今はローマの行政官から請け負って、人まで雇って同胞のユダヤ人から占領軍のローマに納めるために税金を取り立てている。生活も豊かで大きな屋敷に住み、いつでも人を呼んでご馳走できるだけの暮らしをしていた。同胞ユダヤ人から何と言われようと、仲の良い友達もたくさん居り、「結局この世は、すべて、金がものをいう」ことを確信しており、その信念を揺るがすものは何もなかった。現代の私たちの周りにも、似たような人は一杯いるし、それを目指して一生懸命の努力を続けている若者も多い。

 なぜ、ザアカイはイエスを見たいと思ったのだろう。それも、人目をはばかっていちじく桑に隠れてまで。彼にも、なぜ自分が、「ここまでしてイエスを見たいのか」、分からなかったのでないかと思う。彼はリーダーとしていつもやりたいことをやって来た。その彼が、ふと、気になった。イエス?

 パウロにとっては、ザアカイの例も「天地創造の前から神はザアカイを愛し、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びに(エフェソ1・4)」なられたのだろう。ザアカイがその時に自分の心の動きを「神の選び」として自覚できたかどうかはあやしいが、彼はイエスを見たいと思った。このような機会、「神からの心の動き」は、私たちの人生においても、何度か、与えられる。洗礼を受けた人には、必ず、与えられる(Ⅱコリント1・22)。

 ザアカイは自分でもよく分からないうちに木に登り、イエスと出会った。サラッとやり過ごすこともできたが、彼は自分の心の動きに従った。しかし、彼に救いが訪れたのは、その後のことで、イエスの評判を守るために(自分の評判でない)決心したこと、「財産の半分を貧しい人に施す。」という決意を選んだことであろう。ザアカイの回心は、彼が訪れた機会(救いへの招き)を逃さなかったことで達成された。

 私にも逃さずできるだろうか;神さまからの特別な恵みなしにはできる決意ではないだろうが。聖母のご保護に依りすがって、チャンスの時にその機会を逃さないことを切に願いたい。東方正教会の伝承では、イエスの復活後、ザアカイは使徒パウロの協力者として福音宣教にたずさわり、カイサリアの司教として働いたと伝えられている。

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