ウィークリー・メッセージ 2022年3月27日

ゆるすこと

川上栄治神父


 わたしは松山にあるロザリオ学園の海の星幼稚園でチャプレンを務めていますが、その幼稚園の子どもたちと接していると、最近一つの傾向があるのを感じます。何か悪いことやふざけたことをする子たちを見ると、他の子が「あの子は悪い子だからね」と言うのです。わたしは中学生ぐらいまでの記憶がほとんどないので、自分が子どもの時にどうだったか覚えていません。ただ、こういった子どもたちの言動は今の時代を象徴していると言えるかもしれません。この言葉自体が間違っているわけではないですが、この考え方だけで生活していると自分の周りに起こる出来事や周りの人を「良い」「悪い」とだけ判断することになりがちです。そして、その風潮を作り出しているのは、マスメディアやインターネットだと言えるでしょう。

 今日読まれた福音は「放蕩息子のたとえ話」という福音書の中で最も有名なものです。おそらくキリスト教の信者でない人でも知っているかもしれません。自分のわがままで父から受け継ぐはずのお金を使い果たして帰ってきた息子を温かく迎える父の姿は、神のゆるしを表しているとは言え、どこか納得できないものを感じる人もいるでしょう。そして、自分の弟を「金を使い果たしたのに宴会を開いてもらうのは納得できない」と批判する兄の考えに共感する人が多いと思います。兄の言っていることは正論ですが、、父に詰め寄る兄は弟を「あなたのあの息子」と呼び、自分とは関係ないかのように振る舞うのは明らかに過剰です。そんな兄に父は「あなたのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」と諭します。これが神のゆるしです。

 仮にわたしたちがこの物語と父になったと仮定して、自分の息子に同じようなことをされたら、ゆるせない人が大半でしょう。けれども、そのわたしたちの価値判断を超えたところに「神のゆるし」があります。それはわたしたちの善悪の判断を超えたものです。だから、わたしたちが人をゆるそうとすれば、わたしたちが神にゆるされているという感謝の念がなければ、なしえないことです。弟が父の元に帰ろうとしたのは「我に帰った時」です。我に帰るとは父である神の元で生きることであり、そこにわたしたちの幸せがあるのです。そのことを放蕩息子のたとえ話は教えてくれます。

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