ウィークリー・メッセージ 2021年6月27日

信仰

川上栄治神父


 わたしは愛媛県の愛光学園で中学2年生の宗教の授業を週一回担当していますが、その授業で生徒たちに毎年見せているビデオがあります。それはハシディーム派というユダヤ教の超保守主義の人々の生活を描いた「ナショナルジオグラフィック」という10年前に放映された番組がYouTubeでアップされているものです。

 ハシディーム派というのは、旧約聖書の律法(モーセ五書)の掟を守って生活しているグループです。彼らは細かい掟を守って生活し、祈りに励んでいます。その姿を見て、生徒たちの中には「生活が縛られていて可哀想」とか「古くさい」という意見が出てきます。それは当然だろうと思います。なぜなら、今の日本社会は宗教が生活に影響を与えている人は非常に少ないからです。興味を持たれた方は「ユダヤ教、ハシディーム派」でYouTubeを検索すれば、45分ぐらいのビデオが出てくると思いますので、一度見られたらいかがでしょうか。

 そのビデオの中でルーサーという名の青年が登場します。彼はハシディーム派のラビ(教師)の親に生まれ、神学校に通ってラビになるはずでした。しかし、神学生の時代に神の存在を疑い始め、神学校を辞めてハシディーム派を棄教し、彼女と同棲しながらも孤独の中で生活しています。番組の最後で彼はこう言います。「後悔しながら生きるのは本当に辛い。今は後悔していないけど、迷うこともある。」彼の言葉を聞くたびに、わたしは彼の人生を自分の歩みと重ねます。わたし自身は自分の意思で司祭となることを選び、今それを生きていますが、ルーサーは親から求められた道を歩めず、苦しみを背負って生きています。そこに宗教の持つ力の大きさを感じずにいられません。

 さて、今日の福音に登場する会堂長や12年間出血に苦しんでいる女性はルーサーの持っていた迷いなど全く無縁で、ただ「救われたい」という思いでイエスに助けを求めました。イエスは死んでしまった会堂長の娘を生き返らせ、出血の止まらない女の出血を止め、二人は喜びに満たされました。

 しかしながら、こういった奇跡的な出来事を求めて、宗教を信じるのならば、わたしたちは少なからず落胆を味わうでしょう。洗礼を受けた時喜びに満たされた人が時間の経つにつれ、自分が変わらないことに失望するという話は珍しくありません。そこで教会から離れてしまう人もいる話をわたしは聞いたことがあります。

 けれども、カトリック教会は「秘跡」という儀式を通して、信仰者に恵みを与え続けています。「秘跡」はカトリック教会の中でイエスの言葉に基づいて制定されたものです。秘跡がわたしたちを劇的に変えることは稀ですが(決してないとは言えません)、秘跡の恵みは確かにわたしたちを助けてくれます。その最も中心になるものは「聖体」の秘跡であり、その他にも「赦しの秘跡」や「病者の塗油」によって、わたしたちの罪がゆるされ、病を乗り越える力が与えられるという秘跡があります。

 こういった秘跡はわたしたちの信仰を導く素晴らしい方法です。神を信じると言っても、具体的にどうやっていいか分からない人は少なからずいます。信仰を「秘跡」という形で伝え、司祭を通して信者にその恵みを伝えるカトリック教会のあり方は素晴らしいとわたしは思っています。

 この秘跡を通して得られる恵みによって助けられる人は大勢います。ただ、カトリック教会に限らず、家族から受け継いだ宗教が自分に合わずに苦しむ人もいることは事実です。それは昔あったことを「今も良い」と単純に受け継ぐことによって生じることです。宗教とは時代の流れを見極めながら、それに迎合せずに「救い」を伝えることだとわたしは思っています。救いとは「拠り所」を与えることであり、これこそ現代世界でコロナウイルスの影響に苦しむ多くの人々に必要だとわたしは確信しています。その救いを少しでも多くの人に知っていただきたいと思い、わたしは司祭として働いています。

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