ウィークリー・メッセージ 20192

 

主の洗礼


 

  高松教区事務局長 西川 康廣助祭  

 誕節は「主の洗礼」をもって終了し「年間主日」へと入る。そしてキリストによってもたらされた神の国の到来(福音宣教)を、一年間を通して記念していくことになる。

巷ではクリスマスが終わるとクリスマスグッズは一掃され、来年のクリスマスセールまで箱詰めされ倉庫に片づけてしまう。そして正月用品が新たに店頭に並んだ光景を目にして来た。主の洗礼の一週間前の日曜日に、教会は「主の公現」をお祝いした。

ある国においては、クリスマス当日よりもこの日をより大きくお祝いし、子供たちへのプレゼントもこの日に与えられている。理由は、この日に神の子イエス・キリストの誕生がユダヤ人以外の人々にも知らされたからである。

クリスマスはイベントではなく、キリストの誕生を毎年記念しつつ、新たにキリストをお迎えすることで、神からの贈り物である一人の嬰児が与えられたことを喜び、日々新たにされていきたいものである。

その意味でクリスマスは、罪の限界を持つわたしたちではあるが、神の方から近づいてくださり、神の愛を戴く希望の日であることを噛み締める時と言える。神でありながら神であることに固執することなく、人間となり、しかも十字架の死に至るまで仕える者となられたキリストを日々祝うことが大切である。

共観福音書は、夫々の立場で洗礼者ヨハネの誕生から生涯について詳述している。ルカは3章でヨハネによる宣教開始の歴史的背景を記し、当時の宗教的堕落や政治道徳の腐敗を連想させ、世の現実と関わるためにキリストはこの世に生まれたと伝えようとしている。

彼は、この世の支配者から解放者するメシアを待望したが、イエスの中には弱者に対する憐れみといつくしみだけしか見えなかった。マタイは11章において次の言葉を付け加えている。「彼が活動し始めた時から今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と。

自らの善行をもって神の前に誇り、報いとして救いを手に入れようとしているが、イエスはこの考え方を否定し、救いは神からの無償の賜物であると強調された。

神の前における謙虚さを常に忘れることなく、洗礼が意味する、水の中に沈んで自分に死に、神のいのちに生かされる生き方を目指したいものです。


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