ウィークリー・メッセージ 201729

 

「御言葉へのアプローチ(マタイ福音書23.1-12)

  

高松教区事務局 助祭  西川 康廣

 

 たしは聖書と出会う時、常にこの箇所は「いつ、どこで、誰が、誰に対して何を、どのように語たのか」というアプローチをするように心掛けている。


この手順で今日の福音書を紐解けば、21章が『エルサレムに迎えられる』とあるので、

「いつ」はイエスのエルサレム入場時となる。

「どこで」は、それに続く話が『神殿から商人を追い出す』とあるので、神殿の境内の一角においてとなる。

そして「誰に対して」は、群集と弟子たちにお話になったとある。

「何を」は、律法学者たちやファリサイ派の人々の信仰の在り方について。

そして「どのように」は、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならないとイエスは語られたことになる。


 イエスのエルサレム入場は、イエスはやがて街の中心に位置するゴルゴタの丘で十字架に掛かって死ぬことを目に据えながら、人々と弟子たちに最期の言葉として『遺言』を残されたことになる。「もしあなたが今日死の宣告を受けたとしたら、どのような言葉を愛する人たちに遺しますか?」と問われるなら、どのような言葉を遺すだろうかと考えさせられた。おそらく何の迷いもなく生涯を通して学んだ、生きたいのちの言葉を遺すに違いない。イエスも同じ思いで今日の言葉を語られたのではないだろうか。

律法学者やファリサイ派の人々
律法学者やファリサイ派の人々は、ユダヤ教正統派の宗教指導者として人々から尊敬されていた人々である。正統派とは、かれらがモーセの座についている人たちだったからである。彼らが律法の授与者であるモーセの名によって語っていたので、畏敬の念を持って傾聴しなさいとイエスは語られたのである。但し、彼らは神の視点からではなく世間体を気にした信仰を歩んでいるので、彼らの信仰の歩みには倣ってはいけない、これがイエスの訓戒である。旧約時代は文字に書かれた律法を守ることにより、即ち自助努力による救いや癒しを考えていた。しかしこれはイエスの十字架とは無縁であり、ましてやイエスによってもたらされた『福音』とはまったく相容れない在り方である。イエスの勧めは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8.23)である。あくまでも神の憐れみと慈しみを生きてこそ、イエスに属する者となれるのだとイエスは諭されたのである。神のみ前における徹底した謙遜を覚えたいものです。

御言葉に触れて
わたしたちの信仰の立ち位置はどこにあるでしょうか。常にイエスのみ言葉を聞き取り、イエスの視点で日常生活を送るように呼ばれています。最後に以下のヤコブの手紙を噛みしめてみましょう。

“あなた方が聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となるからです。”(ヤコブ2.8-10)

 

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