ウィークリー・メッセージ 201646

 

聖ヨゼフの偉大さ

 

 高松教区事務局 司祭  村上 耿介  

 

 たちは、いま主の降誕祭の準備をしています。

ところで救い主の降誕の準備をした最初の人物はヨゼフです。彼のはたらきなしにクリスマスの出来事はなかったと云ってよいでしょう。

  今日の福音はイエス・キリストの誕生の次第を語ります。「マリアはヨゼフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(マタイ1.18)。当時の婚約というのは、法的には結婚と同じ意味を持っていました。ですから、その期間中に、他の人と肉体的な関係を持ったりすれば、それは結婚後の姦淫と同じ罪であるとされ、石打の刑に処せられるのです。石打の刑とは、下半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対し、大勢の者が投石を行い、死に至らしめる処刑法で、古代のオリエント世界においては一般的な処刑方法でしたが、極めて残酷な刑でした。

マタイがしるすようにヨゼフとマリアは婚約していました。ところがヨゼフの知らないうちマリアが身ごもっていたのです。このことが明るみに出ればマリアは疑いなく石打の刑に処せられます。ヨゼフは驚き思い悩みます。悶々とした日々を送ったに相違ありません。聖霊の働きはヨゼフには見えません。どうするか。選択肢は限られていました。このまま一緒に生活を続けるか、別れるかのどちらかです。別れる場合には事の次第を表沙汰にするか、内密にするかの二つがありました。もし表沙汰にすれば当時の掟によって、マリアはほぼ確実に死刑にされてしまいます。マリアを深く愛していたヨゼフは、これだけは絶対避けねばならないと考えて、事実を隠して別れる道を選びます。苦渋の選択です。というのはナザレのような小さな村ではマリアがヨゼフの許嫁であることは周知のことで、マリアから生まれてくる子はヨゼフの子と思われます。もしヨゼフがマリアと一緒にならなければ、村人はヨゼフがマリアを捨てたものと思って、彼の身勝手な振舞いをきっと非難するでしょう。その悪評は終生彼に付きまとうことでしょう。しかし彼は、こういう非難をも甘んじて受けてもマリアを救おうとしたのです。


このぎりぎりの局面でヨゼフは神と出会います。ヨセフは夢を見たのです。恐らく、幾夜か眠られぬ夜を過ごした後に夢を見たのだと思います。夢に現れた天使は「ダビデの子ヨゼフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのです。マリアは男の子を産む。あなたはその子をイエスと名づけなさい」(マタイ1.21-22)と指示します。お告げを受けたマリアと同じように、決断と従順が求められます。ヨゼフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通りにマリアを迎え入れます。ヨゼフは生まれた子にイエスと名づけます。

 その時からヨゼフの立場は一転します。それまで受身一方だったヨゼフに大事な使命が与えられます。父なる神はマリアと幼子の保護に最強の護衛をつけたのではありません。一人の若い青年、貧しい大工に二人を委ねたのです。ヨゼフはマリアを連れてベトレヘムに行き、更にエジプトへ下って行きました。その道筋で遭遇した困難、危険、苦労は測り知れないものがあったはずです。ヨゼフはこの重荷を黙々と背負って、無事に二人を守り抜いていったのです。
私たちに救いをもたらした救い主の誕生は、このヨセフの苦悩と決断と従順なくしては実現しなかったのです。ヨゼフは誰にも打ち明けることが出来ないような深い苦悩の中で神と出会いました。私たちも、ヨセフのような立場に身を置くことはないでしょうか。

 受け入れがたい理不尽なことを、どうしても引き受けなければならない、ということはないでしょうか。しかし、そういう時は、もしかしたら、私たちが、自分自身の中にキリストを迎え入れる時であるかも知れません。

 

西川助祭の記事「待降節第3主日」に行く イスマエル司祭の記事 「夜空に大きな光が輝きました」に行く>

ウィークリー・メッセージ目次に戻る

トップページに戻る