ウィークリー・メッセージ 201628

 

「年間第1主日」

 

 徳島教会担当司祭 イスマエル・ゴンザレス  

 

 日の福音で、イエスは、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」(ルカ10:5-6)と仰います。

 このみ言葉通り、イエスは復活し弟子たちに現れたとき、ご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36, ヨハネ20:19)と、まず挨拶なさいました。

 では、私たちキリスト者にとっての「平和」とは、どういう意味なのでしょうか?
『聖書と典礼』の解説には、「単に戦争や争いがないということではなく、神の恵みに満たされた状態を表すことば。」と書かれています。
 つまり、「神から離れておらず、共にある状態」と言うこともできるでしょう。

 このことから、神の愛するひとり子であり、父と一体であるイエスは、まことの「平和の子」です。
 また、父への完全な従順により、十字架上でご自身を聖なる生ける犠牲として、世の罪を自ら担い、(あがな)われました。
 こうして、人間の罪によって妨げられていた、神と世界の関係は新たにされ、和解が実現されたのです。
 パウロにとって十字架は、「和解のシンボル」でした。
「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(2コリント5:19)

 イエスの「無限に与える」という「愛の犠牲」が成就された、「十字架の神秘」により、私たちはすでに「平和」を得ています。
 十字架上のイエスに結ばれることによって、新しく「平和の子」として創造されたのです。

 真福八端(しんぷくはったん)の第七項には、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)とあります。
 また、「地には平和」(ルカ2:14)というのは、神の意志であると同時に、人間の課題です。
 神と和解した人だけが自分自身とも和解し調和のうちに生き、また、自分のまわりと広い世界にも平和をもたらすことができるのです。

 今日、イエスは私たちに呼びかけられます。
「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」(ルカ10:3)

 決して平和とはいえない今の世の中において、十字架の神秘に与りながら、平和の子、神の子となり、キリスト者としてそれぞれの場所で平和をもたらす努力をして参りましょう。

 

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