ウィークリー・メッセージ 201616

 

「古い自分に死に、主の復活に与る」

 

 中予地区担当司祭 稲毛利之  

 

最初にお断りをしておきますが、今ここに記すメッセージは、箇所の性格上、信者さん達に向けたものです。

 て、今日の箇所を読む者は、絵画的な、不思議な静けさが支配しているような、ちょうど時が止まっているような印象深い情景の中に誘われます。しかし、そんな雰囲気の中で、ショッキングな弟子の言葉を聞きます。

「わたしは漁に行く。」

これは、もう弟子をやめようかな、昔の生活、昔の自分に戻ろうかな、という事かもしれません。

 際、司祭職を辞める人、教会に来るのをやめる人が後を絶ちません。それは、自分の実情や周りの状況に失望、絶望してしまうからでしょう。ペトロも仲間たちもそうだったでしょう。彼らイエスと寝食を共にした直弟子たちでさえそうだったのです。さらっと読むと気付きませんが、ショッキングですね。しかし、彼らはどうやって自身の使命を継続できたのでしょうか?

 の答えが、今日の箇所に描かれています。彼らは復活の主から直接食べ物(非常に些細な日常的な事柄)の世話を受け、罪や弱さ、信仰のケアを受け、使命(召命)と派遣を新たに授けられました。この事は、わたしたちの使命は、事の初めから最後まで、神から養われている、世話をされているという事を示しているのです。
ルカ22章31−32によると、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とあります。シモン・ペトロの信仰はイエスの祈りに依っていた訳です。

 く「信仰、信心が足りない!」との声を聞きます。わたしたちが信仰という言葉を使う時、往々にして混同が見られます。自前の信仰と上から(恵み)の信仰があることを指摘しておきます。生前のイエスに従っていた弟子たちの信仰と、主の死と復活を体験した後の弟子たちの信仰、換言すれば、復活の主に出会った後の信仰との違いです。この事をごっちゃにしていませんか?聖パウロに聴きましょう。
「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4章4−5)
イエス御自身がこう仰せられます。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(マタイ21章44)

 たしたちの善行や信仰がまず、打ち砕かれなくてはならないのです。「わたしの信仰」が裸にされ、その代りに「イエスの信仰の賜物」を自分のものとして受け容れる為に。


「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(Tコリント1章30)

わたしたちは今日の箇所のような出来事、「わたしの自前の信仰」の死と、「イエスの信仰の賜物」を只で受け容れる体験を個人的に実際にしているのでしょうか?
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(Tコリント2章16)なぜだか、今日の箇所全体は、温かく光り輝く静けさに包まれているように感じられませんか?

 たしたちは、復活の主に実際に出会うことができる。挫折や失敗や、恥ずかしさの只中でこそ…そして、一緒にご飯を食べ、赦され、新たにされ、再び遣わされるーこれが今日の箇所の大事な点でしょう。そして、これがどうしてミサがあるのかを描いて見せているのかもしれません。この箇所の温かく光り輝く静けさに包まれているような感じは、ミサの中の雰囲気と似ていませんか?最後に問わせてください。今日の箇所のように、あなたは復活の主に実際に出会った事がありますか?それとも、今日の箇所が、自分にとってお伽噺のようなものなのでしょうか?正に、これがあなたに問われているのです。

 

 

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