ウィークリー・メッセージ 201519

 

イエスへの信頼に留まることのできない弱い私たち」

 

 高松教区助祭 谷口 広海       

 “わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

 私たちは多分、主・イエスにつながっていると、何となく思っているのではないでしょうか。そこで、「つながる」という言葉を「信頼」という言葉に置き換えて考えてみたいと思います。
あの12使徒は当時、しっかりと主を理解し、主に結ばれ、これ以上神に結ばれた幸せな存在はないと自負していたことでしょう。いつもイエスのそばにいて神の力、神秘を目撃し、体験していましたから。そしてその力に護られていると思い、そこに信頼を寄せて安心していたに違いありません。しかし、その安心の拠り所、力であるお方、主・イエスが残酷極まりない受難と死の前に、何の力も発揮できず、葬り去られたのですから。その信頼と安心はもろくも崩れ去りました。そしてついには散りじりの逃避に走ります。それはイエスの慈しみへの信頼ではなく、何物をも凌駕する絶対的力のみに頼っていたからといえるかも知れません。3年もの間、イエスに仕え、イエスを崇め、喜びのうちに従っていた12使徒でさえそうだったのですから、私たちはどうなのでしょう。
 人から見て、そんなにも不甲斐なく、主への裏切りともいえる行動に走った弟子たちに対して、主は一言も責めることなく、返って、深い愛と赦しを示されます。弟子たちは主の慈しみの対極にある、自分たちの思い上がりとみじめさ、信仰の弱さ、思い違いの信頼と心のもろさに気付き、力への依存ではなく、主の慈しみに対する真の信頼へと心が整えられていきます。

 私たちも常日頃、主への反逆ともいえる罪の中にいます。何度転んでも常に慈しみの手を差し伸べ、どんな重大な過ちを犯しても赦してくださる主の無限の慈しみは、ともすれば人の上に立ち、経済力に物を言わせ、社会的権威と権力におもねて生きようとする、余りにも傲慢な私たちの姿に気づかせてくれます。根本から主への信頼へと導き変える恵みは主の慈しみとゆるし以外にはないのかも知れません。
世の力、悪の力の儚さともろさ、そして自分の弱さに気づかされ、主にひたすら信頼する者とされた時、その信頼に生きることが出来るようになった時、はじめて私は真のブドーの木であるイエスにつながっている枝になったといえるのではないでしょうか。そしてキリスト者の基本的な生き方といえるのではないでしょうか。

谷口広海

 

 

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