ウィークリー・メッセージ 201514

 

キリストの受難(パッション)の意味について考える」

 

 宇和島教会担当司祭 田中 正史

 エス・キリストが逮捕されてから十字架上で処刑されて死ぬまでの出来事、および彼が被ったすべての苦しみについて福音書に記述されている箇所は受難物語と呼ばれています。この受難物語の最大の特徴はイエスが苦しみをすべて引き受けているということです。彼はいかなる苦しみも軽減されることを求めず、苦しみを生み出す人間の悪の現実と、そこから生み出されるありとあらゆる苦しみをその苦しみのまま自らの沈黙の中で、また神の沈黙の中で受け取ります。
 苦しみの杯(さかずき)をすべて飲み干そうとしたイエスの姿は、その姿を信仰の目で見ようとする人々にとってはとても衝撃的なことだったのではないでしょうか。

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 受難という言葉は英語でパッション(passion)と言います。これはラテン語のpatior(パティオール)という動詞の過去分詞passus(パッスス)が名詞化された言葉です。動詞patiorには本来「苦しむ」「耐える」「がまんする」という意味があり、その後イエスの苦しみの出来事が刻印されて、「許す」「受け入れる」「甘受する」「忍耐する」という意味へと発展的に派生してきたのではないかと考えられます。
 この語源の分析からわかることは、パッションという言葉が意味していることは、苦しむことは同時にその現実を受け入れるという主体の覚悟と決断に本質的に結びついているということです。イエス・キリストの苦しみが単なる無意味な苦しみではなく、受難、すなわちパッションと呼ばれる理由がそこにあります。
 患者を意味する英語のpatient(ペイシャント)という言葉もキリストの苦しみであるpatiorと同じ語源から来ていることからすると、突然降りかかってきた病の苦しみを受け入れ、その現実を耐え忍びながら癒されることを待つということが、患者という言葉の本来的な意味なのでしょう。そこから「忍耐」「がまん強さ」「根気」を意味するpatience(ペイシャンス)という言葉が派生して来るみちすじが見えてきます。大きな苦しみの中にあっても、その苦しみに向き合い、自らを失うことなくそこから解放されることを信じ、耐え忍びながら自分らしく生きようという意志がこの言葉の中に込められています。
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 受難を意味するパッションという言葉が出てきたのが紀元二世紀頃であるということからすると、ラテン語の動詞patiorという言葉において「苦しむ」という意味と「受け入れる」という意味が結びついた経緯として、そこにイエス・キリストの受難の出来事が深く関わり、それを仲介したということは容易に推測がつきます。キリストの受難は単なる歴史的な出来事の記述ではなく、キリストの苦しみを通しておん父の愛が世に示された啓示であるといえます。それゆえキリストの受難以前と以後では苦しみの意味がまったく変容していることがわかります。
 キリストは私たちに先立って苦しみという現実から生まれる新しい世界の創造の神秘を歩みます。彼は痛みと苦しみを知っています(イザヤ53・3)。このキリストの先駆けの歩みによって、苦しみを負っているあらゆる人にとって、すべての苦しみの中にキリストが私たちと共にいるということが示されています。キリストの受難が私たちに語っていることは、この世界にはなぜそもそも悪があるのかという問いに対する客観的な答えではありません。そうではなく、私たちの目の前にあるこの現実の苦しみ、そして私たちを死に追いやる苦しみに対して、私たちがどのように主体的に関わることができるのかという苦しみからの解放への参与の招きです。
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 受難の主日(枝の主日)には、盛儀の入堂式とミサ聖祭の中で二つの対照的な福音が朗読されます。一番目の朗読はイエスがエルサレムに入城する場面で、ろばに乗っているイエスに対して人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように」(マルコ11・9)とイエスを讃えます。しかし、次の朗読では、その数日後、ローマ総督ピラトの前で群衆はイエスを「十字架につけろ」(15・13,14)と激しく叫び立てます。一方でイスラエルの王と讃えていた同じ人たちがイエスを拒絶するに至る間にはいったいどういう心境の変化があったのでしょうか。
 すべての人間の苦しみの根本的な原因はただ一つ、それは幸せの源から自分が離れてしまっているという絶望感と孤独です。幸せの源である神との関係性を修復することができないときに、罪は私たちに幸せの根源である神を拒絶するよう誘惑します。その結果、苦しみを生み出す悪そのものに人間が加担することになり、悪によって生じたこの世界から生み出される苦しみが、それに加担してしまった人々によって増幅されてしまうという皮肉な現実が社会に広がっていくことになります。
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 私たちはどのように悪に立ち向かうべきなのでしょうか。キリストから離れて悪に立ち向かうことは果たしてできるのでしょうか。聖週間において示されているキリストの受難の出来事が私たちにその答えを与えてくれます。
 受難の主日の第一朗読はイザヤ書における「苦しむ僕(しもべ)」について語られています。この僕は最終的なメシア(救い主)を体現しているだけではなく、すべての苦しむ者たちの先駆けとしての姿でもあるのです。
 キリストの生涯において示された神の憐れみ(compassion)という言葉は共に(com)苦しむ(passion)という意味です。神であるおん父みずからが私たちと共に苦しんでくださっているという姿から、私たちは苦しみにどのように向き合っていけばいいのかという問いに対する答えを見出すことができます。
 神は私たちの無力をご存じです。そのことを十分承知の上で私たちを愛し、憐れみにおいて私たちと共にあり、私たちの苦しみと悪の結果もたらされる苦しみを共にしています。神の子イエス・キリストは私たちと同じ人間性を自らのものとして、私たちと同じ人間であることを引き受けただけでなく、私たちがイエス・キリストが生きた同じ人間性と一つになることを望まれました。
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 パウロはコロサイへの信徒の手紙の中で、自分の苦しみとすべての苦しんでいる人の苦しみとキリストの苦しみが一つであると語っています。「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(1・24)。これらの言葉においてパウロが語っているのは、私たちは互いに連帯するだけでなく、キリストの贖いのための苦しみにおいてキリストとともに連帯するということです。連帯という言葉の意味は、他者の重荷を共に担い合うということです。キリストは私たちとともにこの重荷を担ってくれています。
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 受難の主日の答唱詩編は詩編22からの引用で、「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」という言葉から始まり、絶望的な想いの吐露(とろ)が繰り返されています。この言葉はイザヤ書の苦しむ僕の言葉でもあり、同時に、イエスが十字架上の死の間際に唱えた言葉でもあります。神は私たちの罪の結果、そして罪からもたらされる人間の苦しみからわが子イエスを隔たたせることはありません。神は私たちのことをすべてお見通しであり、私たちがどのような罪を犯そうとも,その私たちに対して憐れみをもち、キリストにおいておん父は私たちと共に苦しんでいます。しかし、神の憐れみは憐れみとなり、罪、苦しみ、死そのものに対する最終的な勝利を私たちに切り開きます。

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 パウロが引用する初代教会における最も古いキリスト賛歌の中では次のように歌っていました。
「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです(フィリピ2・5〜11)
 イエス・キリストにおいて神は死に至るまで私たちを愛し、哀れなラザロに対して行ったように、また愛する独り子であるイエス・キリストに対してもそうであったように、再び私たちにいのちをもたらしてくださいます。それが神の私たちへの約束であり、私たちへの愛であるからです。この約束と愛がキリストの受難が私たちに告げている大切なメッセージなのです。

 

 

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