ウィークリー・メッセージ 201511

 

四旬節第3主日「四旬節・私たちの宮清め」

 

 新居浜教会担当司祭 稲毛利之

 エズスはエルサレム神殿の境内にお入りになり、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒され、売り買いをしていた人々を皆追い出されました。しかし両替人や鳩を売る人々、そこでの売り買いは便利で必要なものでした。なぜなら、神殿に納めるお金(コイン)は異邦人の汚れたお金であってはならず、ユダヤのお金に替えなければならなかったし、巡礼者にとって長旅の間、奉げものの動物が死んでしまったり、傷が付いたりしたからです。奉げものとして不可欠な傷の無い鳩が神殿で手に入るのは、人々にとって悦ばしいことだったでしょう。


しかしイエズスはもっと深いものを見ていたのでしょう。そういう便利さや快適さになずんで、いつの間にか、父なる神へのひとすじの想い・祈りの心がわきに追いやられてしまっている、ないがしろにされている様を。


 わたしたちの日常生活も同じことが言えます。わたしたちには楽しい時間が必要です。友達とカラオケに行ったり、仲間とパーティーをしたり、テレビを見たり、映画を観たり、ゲームをしたり…。便利さや快適さも必要です。愉しみ・喜び・快適さそのものが悪いわけではありません。しかし、いつの間にか神様でなく、それらの楽しみ・喜び・快適さそのものが目的になっていきます。それらを得るために生きるようになります。
「今、面白いテレビを見ているから、神様、あっちに行ってて!」「今日は素晴らしい映画を観るのでミサには行きません。」
また「お笑い番組」がどうしてこれほど、たくさん流行っているのかを考えてください。わたしたちは疲れているからです。ストレスが溢れているからです。わたしたちには、「気晴らし」がどうしても必要だからです。しかし「気晴らし」は「気晴らし」にすぎません。
例えば、美味しいビールを飲むためにジョギングする人がいますね。微笑ましいですね。でももし、美味しいビールを飲むために働く、美味しいビールを飲むために生きる…これでは、本末転倒ですね。働く意義が見えなくて、生きる意義が見えなくて、ささやかな気晴らしのために、気晴らしを頼りに生きている…これがわたしたちの現状かもしれません。
 でも、わたしたちは皆老いるのです。“老い”とは、剥奪されていくプロセスです。健康も、仲間も、友達も、愉しみ・喜び・快適さも失っていきます。そして最後に、一人で死んでいくのです。それは“離脱”の体験です。その時初めてわかるのです。何者にも奪うことのできない、最後まで残るものを!
「その人の価値とは、その人の孤独の価値である。」と或る人が言いました。
死の瞬間、「これこそわたしの嗣業(受ける分)」といえるものを、わたしたちは持っているでしょうか?そのとき、死も、何ものも奪うことのできない、最後まで残るものを持っているでしょうか?これが人間の一生の“宿題”です。

 この“宿題”に人々の目を向けさせるのが、イエズスの「宮清め」であり、わたしたちの魂の「宮清め」である、「四旬節」という季節なのです。

 

A lecture or an input for the retreat during the Lent.(四旬節の間に心得ておきたいこと:英語版)はこちらへ>

 

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