ウィークリー・メッセージ 20158

年間第6主日 御心ならば、わたしを清くすることがおできになります

 善通寺教会担当司祭 ウイリアム・ネルソン

 たしが少年だった何年も前、家族と一緒によく海に遊びに行っていました。 海岸の近くて住んでいたので、両親や兄弟と一緒に、一日や半日を海辺で過ごしながら、砂の城を作ったり、皆で笑ったり食べたりしながらとってもうれし時間を過ごしていました。わたしたちが遊んでいた近くにはあまり船を見ることをなかった古びた船着場がありました。カモメの群が餌や魚カスを狙う所で、ほとんど老いた釣り人しか使っていませんでした。この古い桟橋は分厚い板で舗装されており、板と板の間には海水や雨水や風が間を通り抜けることができるようにとしっかりと縛られていませんでした。板と板の間にはおそらく四センチ弱の間隔がありました。この間隔、この小さく開いた隙間は小さな子供だったわたしを怖がらせていました。しかし、どのような理屈にも論理を聞いても、その小さな開口から落ちてしまったら、きっと海岸に打ち寄せる波の中に消えてしまうのだろうと思っていたからです。父親に手を握られて彼と一緒に歩いた時のなら、分厚い板の上を進むことができました。 恐れていましたが、それよりも父親への信頼がより強かった。父と共にいて、何が起きたとしてもそれがかえって良い結果になると信頼していました。

 今週の日曜日の福音は重い皮膚病を患っている人について話しています。社会のために彼は危険な存在で町や仕事、家族から追放されました。彼は人間からも神からも切り離され、生活のためにひとりでに物乞いするしかありませんでした。この壮絶な絶望の状態で彼はイエスに出会います。

 彼は主に何を言いますか。驚きの言葉を耳にします。「治してくれ」あるいは「この病気を取り去ってくれ」と叫ぶのではなく、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。深い淵から主に信頼し、自分の未来そして命をイエスの手に委ねます。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。健康よりも、生命よりも、重い皮膚病を患っているこの人は神様のみ旨を行うことを望みます。

 ほとんどの人は、信者でもそうでなくても、時々祈ります。たいていの場合、わたしたちは具体的な事、結果、状態のために祈ります。「主よ、これをして下さい、あれをして下さい、この病気を治して下さい、僕の子どもを手伝って下さい、私を大学に入らせて下さい、この病院から出して下さい」などなど。

 これが今日の福音の箇所の人の祈りでしょうか。彼の祈りは違います。彼の祈りは信頼する心、信仰の心から出てきます。もちろん、病気を治してほしい、誰でもそうするでしょう。しかし信頼と信仰のうちに自分のすべてをイエスの御手に委ねています。

 信頼と信仰。目的も知らず通り道も知らずに、父親と手を繋いで歩む小さな子どものように、わたしたちもイエスのそばに歩むことができたらなんと幸いなことでしょう。

 こうして話は単に病気の清めで終わるのではなく、信頼と信仰に満たされた心で完成します。「イエスが深く哀れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と、たちまち皮膚病は去り、その人は清くなった。」

 

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